ストーリー

次世代に残す大船渡をここから創っていく。すべては、地元への恩返し

岩手県・三陸海岸にあり、太平洋を一望できる「大船渡温泉」は、日帰り入浴施設を兼ねた温泉宿泊施設。漁師で民宿オーナーでもある社長が地元への恩返しとして開業した。漁師町で観光業が発展しなかった大船渡の魅力を伝え、地元の人達と観光客との交流が生まれることで復興・地域経済発展への推進力となることを目指している。舵を取るのは、経歴も気質も異なる兄弟。兄で代表取締役社長の志田豊繁氏、弟で専務取締役支配人の志田繕隆氏に事業への想いをうかがった。

なぜここに大船渡温泉を造ったか

岩手県大船渡市は、南北約270kmにわたる三陸海岸のほぼ中間地点。沖合いは親潮と黒潮がぶつかる世界有数の漁場だ。太平洋を見晴らす大船渡湾口の高台に大船渡温泉が建っている。源泉かけ流しの天然温泉、豊かな海の幸、そして太平洋から昇る朝日が自慢の温泉宿泊施設だ。開業は東日本大震災後の2014年7月。総客室数69室、収容人数は215人。日帰り利用可能な温泉入浴施設を備えている。

「自分が、地元であるこの場所に民宿のような温かさをもつ宿泊施設を造らなければならないと思った。」と、海楽荘の代表取締役社長・志田豊繁氏(以下、豊繁社長)は振り返る。
ワカメとホタテを養殖する漁師でもある豊繁社長は、三陸海岸の景勝地、碁石海岸(大船渡市)で2軒の民宿海楽荘を営んでいた。1軒は豊繁社長が幼少期に母が始めた本館。もう1軒は後に自分で建てた別館だ。当時は、漁師の父が獲った格別新鮮な魚介類を使った料理が好評で、後に豊繁社長が提供し始めたマグロのかぶと煮も名物料理となり、新鮮な海の幸と温かいもてなしで、県外からも常連客が繰り返し訪れる人気の宿だった。

しかし、東日本大震災が大船渡を襲う。民宿海楽荘は辛うじて残ったが爪痕は大きく、ライフラインが寸断された状態がしばらく続いた。震災から1ヶ月が経ち、被災した民宿海楽荘に電気が復旧すると、豊繁社長はすぐに寝泊まりできるように宿に応急処置をして、大船渡へ来る復興工事関係者やボランティアを受け入れた。民宿海楽荘の館だけでは足りずに3軒の空き家を借りて、可能な限りの宿泊客を受け入れてきた。宿泊客が出払った日中は、民宿海楽荘の風呂を沸かして地元の人達に開放。大型バスで避難所を送迎に回り、無料で利用してもらっていた。

「仮設住宅に入っている人達に、足を伸ばしてお風呂に入ってもらいたいなと思って。」
それが、すべての始まりだった。大船渡温泉の土地は震災前に購入していた。三陸自動車道の碁石海岸ICに近く、JR大船渡線(現在はBRT代行運送中)の沿線。風光明媚な三陸沿岸でも特に眺めのいいロケーション。大船渡グランドホテルが撤退した跡地で、ここを地元の手で守りたいと考えていた。温泉が出ることは調査済みで、震災前の計画では健康ランドのような日帰り入浴施設を造るつもりだった。しかし、地元の人が毎日お風呂に入ることができる憩いの場にするには、健康ランドの料金設定は高すぎる。どうしても銭湯料金の430円にしたかった。宿泊施設を併設しなければ経営が成り立たないだろうと銭湯組合の会長の助言もあり、温泉宿泊施設の建設を決めた。

資金ゼロからの開業。兄の原動力とは

「大船渡に早く大きな施設を造って復興を促進したい」
気持ちははやるが、自己資金はゼロ。地元金融機関の単独融資では難しかったが、政府系を含む複数機関の協調融資で資金を集めることができた。
「震災直後から民宿海楽荘の営業を開始して、避難所の人達にお風呂を開放したことを評価してもらえたんじゃないか。民宿海楽荘の別館を建てた費用を7年で返済した実績があるから同じようにやっていけば返せるだろうと思って。」と、屈託のない豊繁社長。

大船渡で生まれ育ち、高校卒業後は東京で7年間板前として働き、地元へ戻って漁師の父が営む民宿海楽荘の手伝いをしていた。
「父母を交通事故で同時に亡くすまでは、海の仕事は何もやったことがなかった。ワカメの養殖も、船と資材があるから1年だけでもと思ってやってみたけど、ロープの結び方もわからなくて、地元の人にこうして結ぶんだとか、機械はこうやって動かすんだと教えてもらった。今までやってこられたのは、地元の皆に支えてもらったおかげ。だから恩返しをしたいと思ってさ。」震災で皆が助け合いながら復興を目指すなか、地元への恩返しの決意は固かった。

こうして、震災から3年4ヶ月後の2014年7月、大船渡温泉が開業した。資金調達と同じぐらい人材確保も大変だったが、「民宿海楽荘さんにお風呂に入れてもらったから」「昔、社長の父母に世話になったから」と、地元の人達が求人に応じてくれ、中には友達にも声をかけてくれて約35名の従業員が集まった。とはいえ、宿泊サービスの経験者といえば民宿をやっていた豊繁社長ぐらいの素人集団。お客さまに教わり、叱られて、従業員と苦楽を共にしながら、故郷を出てホテル運営会社に勤める弟が手伝いに帰って来てくれると信じていた。

民宿の味わいとホテルのサービスを両立せよ

弟の志田繕隆氏(以下、繕隆支配人)は、開業から約1年後の2015年に支配人として大船渡温泉の運営に加わった。弟が本当に帰ってくるとは、兄以外の誰も信じていなかった。

東京でホテルチェーン運営会社のJALホテルズ(現オークラニッコーホテルマネジメント)に就職して新規開発の仕事をしていた。震災前年、親会社の民事再生法申請で体制が変わり大変な時期だったが、目の前の海外プロジェクトを進めなければならない。繕隆支配人は自ら志願して初の海外赴任先となる中国へ渡った。その直後だった、兄から大船渡温泉を手伝いに帰ってきてほしいと連絡があったのは。

「幼少期から生まれ故郷が好きではありませんでした。地元を出てもっと大きなことをしたいと思っていたんです。震災がなければ大船渡に帰るつもりはなかったし、兄と一緒に働くこともなかったでしょう。けれど、自分の故郷が大変なときに知らないふりをすることに大きな後ろめたさを感じて。漁師はできないけど、宿屋の運営ならできるかもしれないと覚悟を決めました。」と繕隆支配人は打ち明ける。

当初の予定より1年遅れた中国でのプロジェクトの完成を見届けて、繕隆支配人は大船渡へ帰って来た。50歳を目前に、自分がなぜ生まれ故郷を好きになれなかったのか、この地であらためて考えてみよう。そして、どうすれば若者がこの地に残るようになるのか考えながら事業をすることで、故郷のために生きるのもいいと思った。

「兄と比較されることは想定済みです。兄のように私欲を捨ててがむしゃらに働くのも悪くありませんが、私も負けたくないと思っています。それに、民宿を経営していた零細企業が資金力のある同業の大手企業を相手にどこまで戦えるかと考えたら、ワクワクしてきました。」と、挑戦心を持って前に踏み出した。

こうして、故郷で大船渡温泉を一緒に運営することになった兄と弟。タイプは異なるが、人への想いは同じだ。
「自分が獲ってきたワカメやホタテをお客さまがおいしいと喜んでくれるから、また獲りにいくんだ」と語る豊繁社長。地元でも有名な働き者だった母に似たのだろう。毎朝まだ暗いうちに漁へ出て、水揚げしたワカメやホタテを宿へ運び、魚をさばき干物を作る。近年はお客さまが増えて自分で獲った海産物だけでは足りないため市場へ仕入れにも行き、昼間は送迎などで大船渡温泉と民宿海楽荘を行き来する。「社長は経営を一生懸命やるのが普通だけども、自分がやってきたことを生かすにはこういうやり方しか思い付かない。今は弟もいるから。」と、フロントに立つときも、漁師で民宿のオーナーの格好そのままだ。

一方で、繕隆支配人は施設経営・運営に目を向ける。
「一緒に料理を作ってくれたり、宿泊のチェックイン・チェックアウトをしてくれる従業員がたくさんいます。彼らの幸せも考えなければならないし、兄のような人に資金を融資してくれた金融機関の皆さんも裏切ってはいけない。大船渡温泉に期待して来てくれる宿泊のお客さまにも喜んでいただきたい。そのためには、運営方法も改善していかなければいけないと思っています。」
旅行予約サイトでも高い評価を得ている大船渡温泉だが、時にはお客さまから怒られることもある。従業員には運営のやり方が悪くて苦労をかけてしまうことに申し訳なく思う。改善しようという使命感が、原動力になっているともいえる。

地元のポテンシャルを引き出し、三陸の観光拠点へ

「私はお客さまのターゲットを一般の方々と考えている。被災し地元に家がなくなって遠くで暮らしている人達がお墓参りに帰ってきたとき、仕事でこっちに来たときに、あまり高くない料金で泊まってほしいと最初から考えていた。」と豊繁社長は語る。

開業1年後、繕隆支配人が着任した頃の大船渡温泉は、宿泊客のほとんどが復興工事関係者かボランティアだった。疲れて帰ってくるお客さまにお腹いっぱい食べてもらいたいと豊繁社長の思いから、今でも食事はボリューム満点だ。

震災から5年が過ぎた開業3年目の夏以降から、観光目的の宿泊が増えてきた。
「大船渡に限らず、被災した三陸海岸が、たくさんの人に来てもらえるところになってほしい。」とは繕隆支配人。しかし、東京で長く生活していた繕隆支配人は、大船渡の知名度の低さもよくわかっている。東日本大震災がなければ、もっと知名度は低かっただろう。だからこそ、チャンスにしなければならない。現在は7割が観光のお客さまである。

2018年、大船渡温泉に宿泊するお客さまを対象に「観光ガイドサービス」を立ち上げた。大船渡近郊の名所を社長または支配人が案内する。大船渡には水平線から昇る朝日、港を出ていく漁船、リアス式海岸の断崖絶壁、市内の至るところに咲き誇る椿、ウミネコの鳴く声、郷土料理や伝統芸能など、特色のある風物がたくさんある。ただ場所を教えるだけでなく、地元の人が連れて行って説明することでお客さまの驚きや感動が引き出せると考えた。
この活動には、自分の故郷に何もないと思っている地元の人達にも、大船渡の魅力を知って自信を持ってほしいという想いも込めている。また、日曜日には地元の生産者にロビーを無料開放して産直市も行うなど、交流促進のために広い敷地と立地を生かしてできることを模索している。

お客さまのニーズも変わってきた。以前は「泊まれればいい」「ご飯が食べられればいい」と、接客・サービスには目をつぶってくれていたかもしれない。しかし、温泉と食事と眺望を楽しみ、のんびり過ごしたいと思って来るお客さまには、理解されない部分もあるだろう。

「地元で民宿を営む漁師が始めた宿なので、素朴で味わいのあるおもてなしをしていきたい。しかし、従業員にも苦労をかけているし、お客さまも物足りなさを感じていると思います。従業員の業務の効率化・省力化に繋がり、同時にお客さまの満足度を上げる活動のためにクラウドファンディングに挑戦しました。」とは繕隆支配人。売上も概ね計画通りに推移しているものの、開業以来、毎日が大変な状況であることには変わりがない。

目標は、大船渡温泉がすべての関係者を満足させられる事業所になること。そのためには、大船渡へ来るお客さまを増やし、この地のファンを作って、さらに多くの人に来てもらうことで観光地としての知名度を上げていく。観光業は若い人はもちろん、地元の高齢者も活躍できる産業だ。「その中心に大船渡温泉がいるという存在になりたいですね。」と繕隆支配人。

弟の話を黙って聞いていた兄は、こう語った。
「自分はちょうどいいときに生まれてきたと思っている。東京オリンピックの年(1964年)に生まれて、日本がどんどんよくなって、49歳のときに震災がきた。再び大船渡を創っていくには、20代、30代ではまだ若い。40代、50代が引っ張っていかなきゃいけない。そのために、生まれてきたと思っている。」

兄の豊繁社長は54歳、弟の繕隆支配人は50歳。地元への恩返しから始まった、大船渡温泉の地域創生への挑戦はこれからが本番だ。