プロを訪ねて三千里【第4回】伊藤隆敏氏(前編)
「過激発言」はトランプ流交渉術か
インフレ行き過ぎは杞憂

トランプ米次期大統領による政策期待を織り込んできた金融市場は、新政権の始動後、その実現可能性を見極める段階に入ります。

年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用改革の取りまとめにあたられた伊藤隆敏コロンビア大学教授・政策研究大学院大学特別教授に、トランプ氏の政策から想定されるシナリオや日銀金融政策の読み方、日本の財政・年金リスクへの備え方についてうかがい、前編・後編の2回に分けて掲載します。

伊藤 隆敏(いとう・たかとし)氏 プロフィール

コロンビア大学教授
政策研究大学院大学特別教授

1973年一橋大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科修士課程を経て、1979年ハーバード大学経済学博士課程修了(Ph.D.)。ミネソタ大学経済学部助教授、同准教授、一橋大学経済研究所助教授、同教授、東京大学先端科学技術研究センター教授を経て、2004年東京大学大学院経済学研究科、兼、公共政策大学院教授(2012年同院長)に就任、2014年4月政策研究大学院大学教授(兼)東京大学公共政策大学院特任教授を経て、2015年1月、コロンビア大学教授(兼)政策研究大学院大学教授、2016年4月より現職。その間、1992-94年ハーバード大学ケネディー行政大学院客員教授、1994-97年国際通貨基金(IMF)調査局上級審議役、1999-2001年大蔵省副財務官、2006年10月-2008年10月、経済財政諮問会議の民間議員、2009年秋学期コロンビア大学ビジネス・スクール客員教授を務めた。

著書には、『不均衡の経済分析−理論と実証−』(東洋経済新報社、1985、第29回日経経済図書賞)、『Japanese Economy』(MIT Press、1992)、『インフレ目標と金融政策』(東洋経済、2006)、『インフレ目標政策』(日本経済新聞出版社、2013)、『日本財政「最後の選択」』(日本経済新聞出版社、2015)等。金融政策、国際金融論に関する編著書、論文多数。

対談日:2016年12月14日

トランプ勝利は現地でもサプライズ

  • 尾河昨年終盤から、市場の話題はトランプ米次期大統領で一色です。現地にいらっしゃって、どのようにご覧になられましたか。
  • 伊藤

    現地でも、少なくともニューヨーク、ワシントンの人たちはびっくりしていましたね。開票速報の番組を見ていると、キャスターたちが和やかに話をしていたのが、開票が進むに連れて笑いがだんだん消えていったのが印象的でした。

    人口の多いフロリダとペンシルバニア、ミシガン辺りの票をトランプが奪い取ったのが決め手になりました。これは、誰も予想していませんでした。東海岸や西海岸の人は、内陸部の激戦州で国民の怒りが蓄積されていたことを読めていなかったんですね。

イメージカット1

  • 尾河いよいよトランプさんが就任します。いろいろな動きがありそうですが、これまで主張してきた政策が議会を通らないとの見方も市場では多いようです。
  • 伊藤

    意外に、通るんじゃないでしょうか。今回は大統領だけでなく、議会の上下院も共和党が勝利しました。これは久しぶりのことです。トランプ氏が共和党の主流派と折り合えるのかという問題はありますが、減税や財政出動など伝統的な共和党が受け入れやすい政策と重なる部分は少なくありません。

    インフラ投資の規模は未知数ですが、少なくとも減税は通るでしょう。いずれにしても財政赤字は膨らむことになりそうです。

  • 尾河その辺りまでは、市場でもコンセンサスが出来ていますね。
  • 伊藤ええ。そうすると金利が上がります。銀行規制のドッドフランク法の緩和も、おそらく議会を通るでしょうから銀行株は上がった。選挙後の相場は、こうしたことを先食いしてきたわけです。
  • 尾河財務長官に指名されたムニューチン氏が、インフラ投資銀行の構想を持っているようです。政府の財政出動が難しいなら、民間からもお金を集めようという発想ですね。アイデアとしては良さそうですが、実現可能性は微妙に見えます。
  • 伊藤

    確かに、難しそうです。採算性と成長性が結びつきにくかった日本の第三セクターのようになりかねないと思います。

    経済理論的には、経済的な効果である「外部性」が見込まれるからインフラ投資をするわけですが、開発主体が外部性を利益として取り込めないと、採算は良くなりません。外部性を取り込むには、例えば鉄道なら沿線の住宅や駅ビルを開発し、トータルで採算が取れるというビジネスモデルを、日本の私鉄各社は採っています。鉄道事業だけでは、儲かりにくいからです。

  • 尾河単純にお金を出せばいいというわけではなくて、儲かる仕組みにしないと、民間との協業の持続可能性はありませんね。
  • 伊藤そうです。インフラ投資の設計は非常に重要です。米国でも、ボストンとニューヨーク、ワシントンを結ぶ高速鉄道の構想などはいつも浮上しますが、鉄道を敷くことで生まれる外部性を、開発主体がどうやって取り込めるかということを考えないといけません。
  • 尾河日本から、ノウハウをアドバイスできる分野があるかもしれませんね。
  • 伊藤日本では、上手く行っていない事例もたくさんありますが(笑)。東京、大阪周辺の私鉄は、長年にわたって一生懸命考えて今のビジネスモデルを作り上げ、上手く実践してきているといえるでしょう。

「過激発言」はトランプ流交渉術か

  • 尾河今回はダブルで衝撃的でした。トランプさんの勝利も予想外でしたが、その後、これほど円安が進むとは──。
  • 伊藤多くの方が、予想していなかったですね(笑)。
  • 尾河そうなんです。大反省するしかありません。ただ、トランプさんの保護主義的なスタンスはやはり気になります。今の相場は、ネガティブな面にフタをしているにすぎないという印象を受けます。

イメージカット2

  • 伊藤

    先行き、そうしたネガティブな面がクローズアップされてくるリスクはありますね。メキシコ・中国に対して関税を引き上げると明言していますし、不法移民を強制送還するというようなことも言っています。外交面では、これまでとはかなり違う方向性を主張している人材を閣僚に採用したりしています。波乱の火種はいっぱいあるといえるでしょう。

    選挙戦中に主張したような荒唐無稽なことは出来ないだろうというのが、これまでのところの大方の見方だと思います。本当に実行し始めたら、かなり大変なことになるでしょうね。

  • 尾河例えば関税を40%などにまで引き上げるかは別として、ある程度は引き上げないと、口先だけと受け止められて支持層が離れていくおそれがありますね。
  • 伊藤

    そうですね。ただ、思い出してください。1981年から94、95年ごろにかけて、実際に日本がターゲットになったんです。日本市場が閉鎖的だからアメ車が売れないといわれ、日本車に100%の関税をかけるという議論も出ました。最終的には100%関税は見送られ、妥協案で決着しましたが。

    トランプさんがこれまでの主張を本当に実行すれば、米中が関税を引き上げる報復合戦になりかねない。かなりまずいことになりますね。ただ、もしかしたら、トランプさんの言ってることは、単なる脅しかもしれません。引き換えに中国やメキシコから何か別の成果を引き出そうとしているのかもしれない。

    何らかの成果があれば、支持者は離れないでしょう。つまり、荒唐無稽で過激な発言は、交渉の初期段階にすぎない、ともいえそうです。ちょっと前向き過ぎる解釈でしょうか(笑)。

「良いインフレ」と「悪いインフレ」

  • 尾河米大統領選後、インフレ期待で金利が上がっています。良いインフレになるとの見通しを前提に、2017年も利上げペースが加速するとの見方もありますね。

イメージカット3

  • 伊藤

    メインのシナリオは良いインフレでいいと思います。需要が供給を上回ってイエレン連邦準備制度理事会(FRB)議長の言うところの「高圧経済」となるなら、インフレになります。

    雇用環境が改善し、賃上げが実現し、ノーマルな経済に戻る過程のひとつです。インフレを越えるペースで利上げもあって、実質金利はプラスになっていく。

    2%を超えることもあるかもしれませんが、2%を超えて3%ぐらいまでは、利上げペースは緩やかだと見ておけばいいでしょう。ドル高/円安が2-3年継続してもおかしくないと思います。

  • 尾河落とし穴はありませんか。
  • 伊藤1980年台前半のレーガノミクスのように双子の赤字につながっていくというのが、2つ目のシナリオです。最後にどんでん返しとしてプラザ合意のように急速な為替調整が訪れかねないとの見方です。2〜3年のいい時期を経た後は、いかに緩やかな調整に導くかというのがテーマになるでしょう。
  • 尾河関税引き上げなどが悪いインフレを招くおそれもあります。
  • 伊藤3つ目のシナリオですね。貿易戦争や外交的な衝突が起きて、高インフレになる。あるいは、政治・経済が混乱して、インフレはそれほど上がらず経済活動が停滞するという混乱のシナリオもあります。
  • 尾河黒田東彦日銀総裁の「オーバーシュート型コミットメント」は、イエレンさんの「高圧経済」に基づく主張と同じことだと思います。日米で景気浮揚に向けたアクセルを踏むということなんでしょうが、行き過ぎるリスクが潜んでいませんか。
  • 伊藤日米とも中期的な平均で2%にすることをコミットしています。今は2%を下回った状況が数年続いているので、平均で2%にするには、2%を上回る時期があってもいいじゃないかという考え方ですね。中期的なコミットがある限り、仮に3%に接近する場面があったとしても行き過ぎにはならないでしょう。

イールド・カーブ・コントロールに2つの意味

  • 尾河

    日銀の金融政策はどうでしょうか。2016年9月に導入を発表した「イールド・カーブ・コントロール」には賛否両論がありますね。市場が量的追加緩和をいつも催促する状況から、イールド・カーブに目線を変えたところが上手かったと、個人的には思っています。

    ただ、日銀のホームページでも長期金利は中央銀行が操作するものではないとの趣旨のことが書かれています。 先行き、米国債の利回りが上昇し、日本の金利も連れて上昇した場合、目標をゼロから引き上げるとすれば、引き締めになってしまいます。逆に金利が低下した場合、ゼロ%付近に維持するのは難しそうに見えます。

  • 伊藤

    日銀がこれまで大量に国債を買って蓄積してきた状態ですから、かなり制御できると思います。今は年間80兆円ペースで買っていますが、これを70兆円に減らすとか85兆円に増やすだけで、大部分の金利はコントロールできるでしょう。

    80兆円を買うのが厳しくなってくれば、ペースを維持するために高い値段で買うことになります。つまり金利がどんどん下がっていくわけですが、マイナス金利の深掘りやイールドカーブがフラット化することに対しては、民間金融機関から反発が出ています。金利が下がらないように、フロアーとしてのゼロ%との意味が大きかったです。

  • 尾河ゼロ%にするのに、80兆円も買わなくてもできるじゃないかとの指摘もありますね。
  • 伊藤

    そうですね。だからこれは、テーパリング(量的緩和の縮小)ではないかという意見もありました。そして、数カ月を経てみたら、長期債の利回りはマイナス領域からプラス領域に入りました。あまり上昇すると景気に悪影響が出かねませんから、今度はゼロ%が上限として意識されるようになってきたのです。

    日銀の言う「ゼロ近傍」という言葉は、イールド・カーブをフラットにさせないという民間金融機関に対する決意表明でありながら、景気の下支えのためにゼロ%からあまり上昇させないというマクロ的な意味合いもあるのです。

イメージカット4

  • 尾河トランプ現象で金利が上昇したときには、後者の側面が効果を持ってきていました。
  • 伊藤9月に発表したのは、ものすごく良いタイミングでしたね。
  • 尾河

    結果的に日米金利差が広がり、ドル高/円安が進行しました。しばらく追加緩和の心配をしなくていい状況になりました。

    ただ、いつまで続けるのでしょう。米金利がどんどん上がった場合、日本の金利が追随することも容認するのかという、不透明な側面があります。

  • 伊藤判断基準はあくまで、国内の物価2%目標にどれだけ近づけているか、景気がどれだけ良くなっているか、ということでしょう。インフレ期待や成長率が高まらない状況のままであれば、ゼロ近傍のターゲットを維持する可能性が高いと思います。
  • 尾河先進国でイールド・カーブをターゲットに据える事例は珍しいと思います。
  • 伊藤

    長期金利はコントロール出来ないというのが通説でしたからね。ただ、通説はどんどん崩れるものです。日銀の取り組みも、その一つといえるでしょう。

    そもそも世界金融危機が起きるまで、長期債を買うような中央銀行はありませんでした。従来は、短期金利をコントロールし、いかに長期金利に波及するか、その伝達経路を研究していました。今では日米で長期国債を直接買っているわけですから、すでに新しい領域に踏み込んでいたわけです。

ETF市場に影響を与えない売却は可能

  • 尾河新しい領域といえば、日銀は上場投資信託(ETF)を買っています。中央銀行が株式を購入するというのも画期的でした。これについて「将来売ることになるのか」と心配する個人投資家の方もいらっしゃいます。
  • 伊藤

    テーパリングを終えた後、しばらくしたら課題になるでしょうね。まずは、テーパリング完了直後のバランスシートを維持しながら金利を上げていくアメリカ型の経路をたどるでしょう。

    その後、少しずつ、バランスシートを縮小していくことになるでしょう。保有する債券は、満期が来たものを償還し、買い替えしなければ減っていきます。
    ただ、ETFは売らないと減らないため、確かに扱いが難しいです。

    上場しているので、少しずつ売っていくことで価格への影響を最小限にとどめることも可能でしょう。あるいは、価格に影響を与えないため、市場ではなく大口の買い手に相対で売却することも選択肢の一つになりそうです。

    日本の市場が常にオープン・透明で、外国から資金がどんどん入ってくるような状況であることが重要です。そうすれば、日銀が保有するETFを買いたい人が出てきてもおかしくないでしょう。

  • 尾河値崩れを起こさないように売ることは可能なので、心配する必要はない、ということですか。
  • 伊藤そう思います。

イメージカット5

  • ※次回、後編(2017年2月上旬配信予定)ではいよいよ、伊藤教授がとりまとめにあたられたGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用改革の深層や、先行きの財政リスクについておたずねします。お楽しみに!